渥美清さんの場合は?【癌の芸能人・有名人】
渥美清さんは、肝臓癌が1991年に発見され、1994年に肺への転移が発覚
渥美清さんは、現在の東京都台東区である東京府東京市下谷区出身の、日本のコメディアンで俳優です。
渥美清さんは、代表作である「男はつらいよ」シリーズで、下町育ちのテキ屋で風来坊の主人公である「車寅次郎」を演じました。
そして、「寅さん」の愛称で広く国民的人気を博し、没後もは国民栄誉賞を受賞しています。
そんな渥美清さんは、肝臓癌が1991年に発見され、1994年に肺への転移が発覚し、この転移性肺癌のため1996年8月4日に68歳で亡くなっています。
渥美清さんの経歴・芸歴は?
渥美清さんは、1928年3月10日に地方新聞の新聞記者をしていた父の友次郎さんと、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母のタツさんとの間に次男として生まれました。
小学生時代はいわゆる欠食児童であり、さらに病弱で小児関節炎、小児腎臓炎、膀胱カタル等の様々な持病を持っていたそうです。
1940年に板橋城山高等小学校に入学し、1942年には巣鴨中学校に入学しますが、時代は第二次世界大戦中であり、1945年に同校を卒業するも3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出されます。
渥美清さんは、この後、工員として働きながら、一時期は担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていたため、この時に培った知識が「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったようです。
1946年に渥美清さんは、新派の軽演劇の幕引きになります。
そして、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演を果たし、その後は知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入って、喜劇俳優の道を進むことになります。
1951年、渥美清さんは、「百万弗劇場」という東京浅草六区のストリップ劇場の専属コメディアンとなり、その2年後の1953年にフランス座へ移籍します。
1956年にはテレビデビューを果たし、1958年には「おトラさん大繁盛」で映画デビューも果たします。
そして、NHKにおいて1961~1966年まで放映されていた「若い季節」、「夢であいましょう」に出演し、このことがコメディアン・渥美清の名を全国区にします。
1963年には「拝啓天皇陛下様」という野村芳太郎監督の映画において、「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立しますが、この作品がフジテレビ関係者の評判を得たため、「男はつらいよ」の構想が練られたといわれています。
1968年、「男はつらいよ」のテレビドラマが放送開始
そして、フジテレビにて1968年、「男はつらいよ」のテレビドラマが放送開始され、1968年10月3日~1969年3月27日までの半年間という放送期間でした。
この「男はつらいよ」テレビドラマの脚本は森崎東さんと山田洋次さんが担当したのですが、「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」という最終回に視聴者から抗議が殺到したそうです。
そのため、この罪滅ぼしの意味も込めて、翌年の1969年に松竹で「男はつらいよ」の映画が製作されたのですが、これが予想に反して大ヒットとなりました。
そのため、渥美清さんは、これ以降にシリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画「男はつらいよ」シリーズにおいて、主演の車寅次郎役を27年間48作に渡って演じることとなり、この映画のシリーズは国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれました。
そして、この「男はつらいよ」の映画シリーズは、映画のシリーズとしては最多記録の作品として、ギネスブックにも掲載されています。
そんな渥美清さんは、前述の通り、1991年に肝臓癌が見つかりました。
1994年には肺に転移していることがわかったため、「男はつらいよ」の47作目からは主治医からも出演は不可能だといわれていたそうです。
しかし、渥美清さんは何とか出演し、48作目まで出演しますが、このことは奇跡に近いとのことです。
1996年7月、渥美清さんは体調を崩し、同月末に手術を受けました。
しかし、癌が広がり既に手遅れの状態であったため、その後、渥美清さんは病室で震えていたこともあったそうです。
ただ、山田洋次監督の弔辞によると、1996年6月に49作目の「男はつらいよ」映画化の件で話し合いをし、渥美清さんは高知ロケを承諾していたそうです。
しかし、1996年8月4日午後5時10分、転移性肺癌のため、渥美清さんは東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去し、没年齢は68歳でした。
心よりご冥福をお祈りいたします。